今回は、というか今回もお酒の中身とはあまり関係のない読みにくいブログです。
先日恵田の田植えがありました。平成26年からやってくださっている前佛さんも自然なかたで淡々とあたりまえのように有機農業をされています。今年は有機栽培を続けるモチベーションというか欲求というか、そんな事を色々尋ねてみたのですが、様々な事をおっしゃってくださったのですが、こちらの勝手な解釈ながらも総合すると、彼にとって自然な事であるというか向いているというか、しかしそれはたぐいまれな素質である、と思いました。
自分としてはどうでしょう。恵田ついて一度じっくり自分の中で整理し言語化する必要を感じていました。
平成21年からスタートした恵田ですが、最初は酒屋さんのお客さんに米農家さんがおられて地元の米でお酒を造ってはどう??みたいな提案があった事がきっかけです。生産者がおられて販売もなんとかなりそう…興味が無いわけではないので好奇心みたいなもので始めても大丈夫そうなハードルの低さ(農薬をまったく使用しない事が決まったのは後になってから)、そしてビジネス的な打算もありました。
恵田に関しては取材もよく受けました。社会から期待される食の安心安全、地域活性化、自然環境保護等の類はメディアのコンテンツとして需要が高いからです。恵田はそうした社会的ニーズに対応した商品に映るのでしょう。また、そうした社会問題に挑む蔵元像も同様です。しかしこちらはあまりご期待に応えられず、自分としては食の安心安全や地域活性化、自然環境保護は目的ではなく(多少あったとしてもそれらを一義的に強く思っているわけではないため背負いたくない)、商品そのものの魅力(中身の品質やデザイン等)を重要視したいので、意識してそういう言葉を使用しないようにしたためコンテンツとしては消化不良となったかもしれません。
蔵元は聖人君子を期待される…と自分には勝手なイメージがあり、自分のこうした意識の低さ、俗人さが自分を長年モヤモヤさせ言語化したい理由につながっています。
前回のブログで紹介したフロムの『自由からの逃走』はひとつのヒントをくれました。ある時代の良心とされるものについての箇所を引用すると、
"人間が自分のものと信ずる願望や目的にしたがって行為するようにかりたてるが、その願望や目的は、じつは外部の社会的要求の内在化したものである"
とあります。自分は社会的要求の内在化に対し意識的に抵抗している部分もあるのかと思いました。そして自分自身が自発的に欲している事を認識するのは案外難しい事だと感じます。もしかすると無意識的にあたりまえと感じている事をアピールする事に抵抗感があるのかもしれません。
今読んでいるのは鈴木大拙の『禅と日本文化』ですがまた何かヒントを得られそうな気がします。